「最中 まゆこ」ストーリー
元祖「最中 まゆの里」の創案者は、大沢依田家14世依田敬一で、町長に就任するや1974年「花とロマンの里」を旗印に「全国地域起こし三羽烏」までにしました。ちなみに他の2つは足助(愛知県)、湯布院(大分県)である。氏の3代前当主は佐二平で、大沢村領主が前田家(七日市藩・群馬県富岡)関係から江戸屋敷にて事務見習いとなり、中央の養蚕・製糸情報に精通する。明治3年(1870)には小杉原に桑樹園造成、5年富岡製糸場が出来るや女工見習に妹みよ、さらに勉三をなるリンクら6人を富岡に、9年弟勉三を富島与平宅へ技術研修のため派遣する。
明治8年、25人繰り富岡式機械「松崎製糸場」操業、翌年自邸内に木造二階建て蚕室建設二階を清涼育、 中階を折表育、下階温度育を試し、全国早さ日本で初めて「松崎まゆ」産出。自邸内製糸場「松崎シルク」は世界博覧会に出品して金杯など受賞。大正11年(1922)江奈に200人繰り「賀茂社」を創業させるが、横浜倉庫が関東大震災で致命的打撃を受ける。それでも県が技術の高さを評価し、現松崎中学校敷地内に「県立蚕種試験場松崎分場」設立、昭和30年まで続けられた。
また佐二平は、地域振興・教育に熱心で自邸内に「大沢学舎」(三聖苑内現存)、江奈に元会津藩家老西郷頼母を招いて「謙中学舎」塾長とする。頼母に感化された佐藤源吉は岩科科学校(重文)建設を思い立つ。郡長をしていたことから豆陽学校(下田高校・蓮台寺)創設、東洋水産本田社長、文化勲章近藤平三郎、スルガ銀行岡野喜太郎らが巣立つ。当初同僚教師の勉三は「晩成社」を結成して十勝開拓の草分けとなる。これも佐二平・善六らの後援あってのことで、第1回衆議院議員に選出される。
なお、忘れてならないのは林多正観上人で「浄感寺塾」にて左右名工人江長八・教育者上屋三峰・三島大社彫刻石田半兵衛を教え、西国から琉球蘭草を移入、強度な「琉球松崎書表」を世に出す。また半兵衛の子小沢一仙は琵琶湖運河計画、南鳥島発見斎藤定蔵、国鉄(JR)総裁石田礼助、相模の父高橋郁郎、丸高報徳会高橋昌、俳優三國連太郎など輩出。母が松崎出身詩人石垣りん、実業家新浪剛士がいる。これもの風土あってこそである。
かかる松崎町は「桜葉生産日本一」と誇るが、もとは養蚕があったからで、桑樹園跡に大島桜苗植栽による。その名残り桑葉にすぐれた薬効があり、健康長寿の「桑葉茶」となる。また「日本で最も美しい村連合」に加盟。石部棚田、なまこ壁、桜葉が要素。もっともというなら駿河湾と富士山、雲見浅間信仰、岩地海水浴場、牛原山の眺望、複数の温泉郷に恵まれる。その昔、遠江洋漁業、造船・海運・天草・鰹節・木炭・椎茸生産など盛んであった。
施設では鏝絵の殿堂「伊豆の長八美術館」(石山修武設計で吉田八十八賞、サグラダファミリア外尾悦郎石彫作品)、重要文化財科学校、なまこ壁通り平三郎生家、土屋三峰資料館、道の駅花の三聖苑、県登録有形文化財依田邸。(敬称略)本製品は、館に黒米・桑葉・桜葉の香り、十勝産小豆使用も勉三を偲ぶもの。
時には四季、皆様の心を常に味にして進化させたく思います。この「最中 まゆこ」はオール今昔松崎物語なのです。
